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誓いのコイン

日露戦争が行われた明治37年2月~38年9月、戦場となった中国大陸の旅順や奉天などから約7万人のロシア兵捕虜が全国29か所の収容所に送られました。松山には全国初の収容所が設けられ、のべ約6千人のロシア兵捕虜が収容されました。
 当時、文明国として西洋にアピールすることが必要だった明治政府は、捕虜を人道的に扱うことを定めた「ハーグ条約」を順守し、比較的自由な生活を保障しました。中でも松山市民は彼らを厚遇し、盛んに交流したことから、「松山はいい」という噂が戦場にも広がり、ロシア兵たちが「マツヤマ・マツヤマ」と叫びながら投降してきたという逸話が残っています。

捕虜を手術する医師と看護婦
ロシア人捕虜収容所が立ち並ぶ松山市の城北地区(現文京町)

捕虜たちを治療する病院は衛戍病院のほか城北練兵所に設けられ日本赤十字社の看護婦や篤志看護婦が献身的に看護を行いました。 将校は市内の自由散歩や一戸建て民家での生活が認められ、大街道にあった芝居小屋での観劇や道後温泉に入浴も行われました。また、県民有志も郡中(現伊予市)や砥部焼の窯元への遠足や、自転車競技大会などを催すなど、活発に民間交流を行いました。
 松山で生涯を終えた捕虜たちの墓地「ロシア人墓地」は、松山城を正面に仰ぐ御幸寺山にあり、今も市民や地元中学生らによる清掃活動が行われています。平成6年にはロシアの有志から日露友好の証としてボイスマン大佐の胸像が製作・寄贈。平成20年に改装工事が完了し、多くの観光客が訪れるようになりました。ボイスマン像の土台には「日露友好のかけ橋」と刻まれています。

高浜港に上陸したロシア兵捕虜たち
高浜駅で汽車に乗車する旅順の捕虜将校とその娘